レポート
REPORT

キーワードは「同時代性・芸術表現の拡張性・身体性」
選考委員によるファイナリスト選考会レポート [前編]

text:Taisuke Shimanuki + AAA2017 選考委員
photo:Ujin Matsuo

国際的な活躍が期待される現代アートのアーティストに贈る芸術賞、Asian Art Award supported by Warehouse TERRADA。2017年2月、選考委員であるキュレーターの小澤慶介、国枝かつら、正路佐知子、服部知之、山峰潤也が、国内を拠点に活動するアーティストをそれぞれ5組ずつ推薦し、そのなかからファイナリスト5組を選出した。選出理由など、選考会においてどのような議論が重ねられたのかについて紹介する。

[写真]左から:小澤慶介、服部浩之、国枝かつら、正路佐知子、山峰潤也

現代アートが意味するところ

服部現代アートをコンテンポラリーアートと言いますが、コンテンポラリーアートの「コンテンポラリー」は、「同じ時代であること」、つまり「同時代性」をあらわす側面があります。グローバルなどと言わなくても当然世界はつながっていて、世界的に傾向が似通ってくるのは必然かもしれないですね。例えば、社会的な課題はどの国にも似たような問題がありますよね。東南アジアに目を向けると、都心部ではあるけれどもショッピングモール化が進行していたりと、文脈は異なっても共有できる問題は多いと思います。

山峰いっぽうで、国ごとの傾向というのもありますね。僕は昨年、文科省の学芸員等在外派研修で台湾に滞在しましたが、ちょうどその時期に、長く続いた国民党政権から新政権へと変わりました。この政権交代は、台湾内で近年起こっていた独立運動によるもので、この一連の動向を契機に、台湾独自の歴史やアイデンティティーに高い関心を持つアーティストがより活発に動いている印象を受けました。もちろん、彼らと話すと日本統治時代の話になることも多くあり、そうしたことから日本を異なる角度で見ることができたし、同時に、「同時代」というものが歴史の連続性の中で成り立っていることも改めて考えました。

小澤新自由主義的な資本主義が世界的に手足を広げているためか、共通した社会的課題や問題が見られる一方で、それぞれの国や地域が抱えている局所的なことが同時代性を表すこともありますね。

現代アートの同時代性とファイナリスト5組について

小澤今回、私たちはAsian Art Awardの選考会を経て、5組のファイナリストを選んだわけですが、同時代性と作品との関係性とはどのようなものだと思いますか?

正路5組のファイナリストには領域横断的な側面を指摘できるという話を選考中もしていましたよね。例えば山本高之さんは小学校教員としての経験に立脚しながら、子どもたちとのワークショップを元に作品をつくります。作家が扱っているのは教育の問題にとどまらずその背後にある社会の慣習や仕組みのあやうさだったりするのですが、教育・学びへの関心が高まる美術の動向に対する批評にもなっている。 

山本高之 「どんなじごくへいくのかな:東京」 | 2014 | ビデオ

小澤そういわれると、松川さんはペインターですが、描く前にモチーフに関する調査をします。彼女と同世代の女性に聞き取りをして、彼女たちが追いやられている社会的な立場や状況を見極めてそれを絵画で表現している。ある意味、文化人類学的な調査と美術を選択することで成り立つ表現といえるかもしれません。

松川朋奈 「でもこれでようやく、私らしくいられるのかなって思ったりもする」 | 2016 | パネルに油彩 | 130.3×194cm Courtesy:Yuka Tsuruno Gallery,Tokyo

山峰谷口さんも同時代性を強く反映していると思います。彼は彫刻を学んでいたためか、情報メディアやCGを使いながらも彫刻的な表現や問題を扱いつつ、デジタルテクノロジーによって希薄になったり拡張していったりする身体性をモチーフにしています。現実と虚像の境界が融解しているような今の時勢を反映した表現だと思います。

谷口暁彦 「私のようなもの/見ることについて」 | 2016 | コンピューター、プロジェクター、ゲームコントローラー

小澤山城さんは、沖縄と外を巡る政治・文化的な力関係を作品のモチーフにしていますが、時にそれは映像インスタレーションで表したり、場合によっては写真あるいは映画にしたりなど、考えていることと表現との関係を踏まえてメディアを選んでいますよね。また、作品の主題も沖縄の歴史や現況のみならず、近年では沖縄に似た他なる地にも目を向けて、より普遍的な視点を獲得しているように見えます。

山城知佳子 「土の人」 | 2016 | 3チャネル HDビデオ インスタレーション | 23'00" cooperation AICHITRIENNALE 2016 | ©Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

服部僕が感じたのは、学問領域や表現形式の横断性だけではなく、アーティスト個人が持っている身体性やバッグラウンドに依拠しつつ、どういうメディアを使うか、何をもって表現するかに対する意識の明瞭さです。絵を描きたいから絵画作品を制作するのではなく、自分がどんな人間で、何をしようとしているのか。それを問うためにメディアを選んでいるように思います。例えばcontact Gonzoはパフォーマンスを主体にしているけれど、場合によっては映像装置を含めたインスタレーションを展開している。

contact Gonzo 「フィジカトピア」展 展示風景 | 2017 ワタリウム美術館 | 撮影:松見拓也

国枝そうですね。各メディアの差異をとらえつつ、常に同じテーマに向き合っているのかもしれません。物質としての身体の動きを力のベクトルとして可視化させること。身体が社会的な文脈によってコントロールされている、言い換えるならば、ある意図をもった動きのデザインから、逸脱や間違いを呼び込むことを遊戯性を交えて作品化しようとしているように見えます。

服部もう一つ重要なのは、本当のところは、誰も現代がどのような時代かなんてわからない、そこに、アーティストが表現活動を実践する大きな理由があるのかもしれないということです(笑)。生きてゆく上で感じ取った漠然とした疑問を、直感も交えて身体的に展開して作品化することで、投げかける。そのひとつの手段としてコンテンポラリーアートがあると思うのです。

服部浩之(インディペンデント・キュレーター)

国枝実践のなかでアーティスト自身も気づいてゆくことがありますよね。それは、一緒に展覧会をつくっていく過程でも感じることで、キュレーターにも言えることだと思います。展覧会が、ある成果を発表する場というよりは、実験と実践の場であり、時に参加者と共有する学びの場として機能することもある。

国枝かつら(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 学芸員)

身体から、考えるということ

小澤そこで身体性というのは、一つのキーワードとしてあるかもしれませんね。冒頭で、服部さんは、現代アートはある見方では世界的に似てきていると言いましたが、それは都市の作りも生活も人々が持っているものも似通ってきているということですね。とはいえ、そうなればなるほど、土地に根ざした人間の身体はどうしても土地柄が出てしまうということは考えられませんか?スマホがあれば、今世界で何が起きているかわかる一方で、遠く離れた人との肌の触覚や体温は得がたい。同じになればなるほど、身体の感覚の差は広がっていく、その距離を扱うことが、アーティストに課されていることかもしれません。

小澤慶介(本アワードディレクター/アートト 代表/キュレーター)

国枝インターネットで以前よりも情報がオープンになると同時に、身体性も強く感じます。例えば作家に会うために、遠い土地に行くときなどはもちろん物理的な距離をより一層実感します。
それから言葉と身体の関係も興味深いですね。見えてくるものが増えてくる一方で、その「見えているもの」、語られている言葉をどれだけ同じ身体的な感覚で共有できているのか。

正路同じ地域で長く時間を過ごしていても「見ているもの」や感覚がこれほど違うのか、という場面にも出くわします。情報との出会い方あるいは取捨選択によって、連帯も分断も生まれ得る。表に浮上してこない断絶や距離をいかに捉えどう表現に結びつけるか、ということでしょうか。その時、身体はそれを測るメディアにもなる。

正路佐知子(福岡市美術館 学芸員)

山峰そうですね。インターネットを基盤とした社会は便利な反面、情報の飽和によって、見えなくなるものが肥大化しているように思います。情報メディアには乗らない身体感覚や空気感、リアリティなどもその一つですが、言葉や環境、教育などの問題によってネットワークから分断されている情報弱者の存在や、インターネット以前の歴史などもそうかもしれません。さまざまな分断を可視化し、社会に問いかけていくことは、これまでのアートの重要なテーマでしたが、社会は刻々と変化し、その分断のあり方も変化し続けています。それらに気づき、問題提起していくことが、アートに強く求められていることだと感じています。

山峰潤也(水戸芸術館現代美術センター 学芸員)

世界とつながっている分、隔たっているとも捉えられるこの世界を把握する方法として、現代アートがあるのかもしれないと考えさせられた。そしてそれは、いずれの表現形式によるものであっても必然的に同時代を表すものであるということにも思いが至った。
次のコラムでは、本芸術賞が掲げている「アジア」について話が及んでゆく。「アジア」が指し示すものあるいはこととはどのようなものだろうか。再び、選考委員であるキュレーターたちの声に耳を傾けてみたい。

選考委員によるファイナリスト選考会レポート[後編]