レポート
REPORT

アジアとはどこか?
選考委員によるファイナリスト選考会レポート [後編]

text:Taisuke Shimanuki + AAA2017 選考委員
photo:Ujin Matsuo

本アワードの初回は、大賞受賞者にシンガポールで受賞作発表の機会が与えられる。日本を拠点に活動しているアーティストをアジアに紹介してゆくとき、アジアとはどのようなものなのか。5名の選考委員の視点から議論が行われた。

アジアは分裂している?

小澤アジアと一言では言えるものの、領土的には広いですよね。国際交流基金のプロジェクトなどでアジアをよく訪れる服部さんは、アジアとそこで展開されるアートについてどのように見ていますか?

服部よく、海外のキュレーターから日本人作家について相談を受けることがあります。企画している展覧会にふさわしい日本人アーティストをリサーチしているのですが、そこで求められるのは、公共性や社会に対して意識を向けて活動しているかどうか。つまり、作品をつくる根拠として内向的で自己表現的な動機よりも、何かしらの同時代の社会状況に対して、程度の差はあれ政治的な立場と考えを表明できるアーティスト。

小澤つまりアジアのアーティストは、時代や社会における自らの立ち位置について意識的であってそこから表現をするということですね。いっぽうで、日本の作家はあまりそうしたところに意識的ではないように見えますが、国枝さんや正路さんは、服部さんが経験したような局面に出会うことはありますか?

国枝ある社会状況への意思表示を求められることは多いです。海外のキュレーターも、例えば自国における受け手への伝わりやすさへの配慮などを考えると、ある程度わかりやすい表現を求める場面は多いでしょう。ただ、一見すると社会への立ち位置を分かりやすく表していない場合でも、そこに社会状況がありありと描き出されてしまうことがあるように思います。最終的には、個人と社会は決して切り離せるものではないと思うので、作品をとおして社会が見えてくることはあるのかもしれません。分りやすい意思表示ではなくとも、ある表現に社会状況が隠されているかもしれない可能性も、考えてみたいと思います。

正路キュレーターの関心が公共性や政治に向かうなかで、直近の社会状況を参照したり、社会に応答する作品に注目が集まる傾向は確かにあると思います。ただ、アーティストが社会的な立ち位置や問題意識を表明し、政治を意識しているということと、作品において直接的にそれが示されているかは必ずしも直結しませんし、敢えて別の方法を選び取っているアーティストもいます。展覧会等の場で紹介される作品は、世に生まれ出た作品のほんの一部でしかない。だからこそ、国枝さんも言われるように、わたしも一見政治的とは思えないような作品も丁寧に見て、読み解いていく必要を感じます。

小澤アーティスト自身が意図していなくても、作品にはそれなりの政治性が描き込まれることがあるということですね。こうして見ると、日本のアーティストの制作方法はアジアのアーティストたちのそれとは違うわけですよね。それを同じアジアとして考えることには何か課題がありそうですね。

小澤慶介 (本アワードディレクター/アートト 代表/キュレーター)

服部いろいろな国を訪れていると、インターネットの普及が大きかったと思うのですが、もちろんそれぞれ言語や風土は依然異なるのだけど、本当に未知の体験とか、圧倒的な差異に驚くことは少なくなって、どこを訪れても似たような風景や状況に出会うことが多くなったように思います。また、どこに住んでいようが、実際に会ったりネットを通したりして顔を見ながら話すことが簡単になっています。それによって、多くの地域で似たような社会問題が生じ、人々の問題意識は似通ってきている感じがします。

そこで改めて考えたいのは、個別性や固有性にまつわる疑いです。よく「○◯ならでは」という言い回しを見ますが、◯○に入るのがアーティスト名であれ、土地名であれ、「ならでは」の作品をつくるとはどういうことなのか?このアワードでいうと、アジアから発信する「アジアならではの作品やアワードというものは可能なのか、そしてその意味はどこにあるのかということを考えなくてはならないかと思います。

服部浩之(インディペンデント・キュレーター)

小澤いわゆるグローバリゼーションにおける空間の均質化ということですね。それとともに、アートの地域的な括りも弱くなってゆくということでしょうか。

インターネットなど技術的な進化とともに立ち現れた距離

山峰今、経済や政治、技術などに係わるさまざまなことが世界規模でおこり、地域を問わずその影響を受けます。これはアートにおいても同じことが言えます。そのため、多くの人が同じ動向に注力するので、地域は違えど似たような手法で似たような問題を扱うことも起こりやすい。その点を作り手は意識する必要があるかもしれません。

国枝いっぽうで、「◯◯ならでは」が、他者からのまなざしによって発明あるいは再発見されることは、これまでさまざまな場面で語られてきました。グローバリゼーションは均質化だけではなく、同時にその土地のアイデンティティが構築されていくものであるともいえるでしょう。その固有性はどこから来て、誰に向けられているのかということに、注意深くならなければいけないと思っています。

国枝かつら(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 学芸員)

小澤先ほどの話ではないですが、生活様式やそれを支える社会的インフラやサービス、機器はますます同じになってゆく一方で、どうしても埋めがたい違いというのは何かありますか?

国枝言葉の問題は大きいですね。作品の画像や言語化されたテキストはビジュアルとしては見られますが、語られている言葉を、どれくらい理解できているのかは疑問です。見えているものがある一方で、見えないものがどれくらいあるのか。その最たるものが「アジア」という存在だと思います。各国や地域によって言語が全く異なりますし、コミュニケーションを図る言語を見出す困難さもあるでしょう。

正路地理上はアジアに位置していても、歴史的に見れば侵略する側であった日本の立ち位置はアジアのなかでも特殊なものです。その日本の内部においてもまた非対称な関係が存在するので、アジア対日本と地理的な観点からの単純化もできないわけですが。「埋めがたい違い」と言われると、現代アートの議論では当然に前提事項として理解されているとは思いつつ、挙げておかねばと思いました。

山峰そうですね。歴史的・社会的に関連性が強いにも関わらず、日本人で韓国語も中国語もわかる人は少ない。距離感が近くなったことでそもそも可視化されているものはたしかに見やすくなった。でも逆に見えてないものへの意識は希薄になっていると思います。その意味でこのアワードが、言語や視覚文化を駆使してコミュニケーションしあえる機会になればいいなと期待しています。

山峰潤也(水戸芸術館現代美術センター 学芸員)

小澤「アジア」、あるいは「アジアのアート」など、あたかも一つの塊としてあるかのように語られがちですが、当然そんなことはない。AAAが考えるアジアは、既存のイメージに回収されない、一枚岩ではないアジアと考えたいですね。

正路福岡にいると、「アジア」「アジアのアート」そして「アジアから発信する」という言い回しに頻繁に出会います。いつも思うのは、その時の「アジア」とは何なのか、「わたし」はどこに立っているのか、誰が、どこあるいは誰に向けて発信するのかということです。そのことに意識的でなければと思います。このアワードが継続されて、その都度集められたメンバーが「アジア」を掲げることの矛盾と意味、意義について考え、議論するなかでその枠組みさえ見直されることもある、そんなアワードになればいいですね。

正路佐知子(福岡市美術館 学芸員)

小澤 そうですね。今回、この議論を公開していることの理由でもあるのですが、このアワード自体がさまざまな視点や批判をきちんと受け入れる、ゆるやかなフレームとして構想されています。ですから、今後の選考委員の顔ぶれも変わりますし、選考方法も時宜に応じて変化してことがあるかもしれません。

正路アワードそのもののあり方を議論できる余白があるというのは大事なことですよね。

山峰アジアに範囲を広げ、アーティストやキュレーターなどが話し合いながら、フレーム自体を更新し続けるアワードを興すことが出来れば、賞を与える場としてだけではなく、同時代の議論を深め、共有して行く場になると思います。

服部そもそも、特になんの文脈もなかった場所に作品を切り離して持ってくることが不可能な活動やプロジェクトは、益々増えてきていると思います。そう思うと、作品を一箇所に集めて展示して、受賞作品を決定するという方法ではこぼれ落ちてしまう魅力的な活動などを、どのように見出し評価していくか。これは今後のアワードというフレームを考えるうえで、重要な課題になるかなと思います。

統合に向かおうとする一方で、その力には呑まれずに残る「アジア」をどう考えるか。議論はつづき、検討すべき点が数多く出たが、ここではその一部を紹介するにとどめた。9月には、展覧会が行われ大賞が決定するが、そうした場をとおして、引き続き「アジア」をどう捉えるかについて議論を深めてゆきたい。